僅かに開いたドアの隙間から、ブーンという音がこちらをめがけて迫ってきた。正体は外の光を求めて飛んできた数匹のハエだ。 体が入るほどドアを開けると、まず玄関の汚れ具合を確かめた。乱雑に脱ぎ捨てられた靴とサンダル、数本の傘があるだけで特に以上はない。この仕事では玄関まわりが作業場所になることが案外多い。突然襲ってきた体の異変に恐怖を感じ、外のだれかに助けを求めて這いつくばり向かう途中で息絶えるのであろう。 ドアを閉め、玄関の上あるブレーカーのレバーを押し上げた。乱雑な玄関に僅かなスペースをつくり自分の靴の居場所を確保する。そして左手に巻いた数珠を首に巻き直した。道具入れからスリッパを取り出し板の間の狭い廊下に置き、履きながら壁についている照明のスイッチを入れる。 だめだ、照明がつかない。
「(ありゃりゃ…)」
仕方なく道具入れから小さな懐中電灯を取り出した。右手にドアがある。開けてみると土壁とタイルで作られた古い和式トイレがあった。
「(やっぱり…)」
便器の中のものは綺麗に流されているが、かなり豪快にOBしている。便器の外で用を足したのかといっても過言ではないほどに。 体調不良で用を足し意識もうろうとベッドに潜り込んだパターンか。そう考えながらドアをしめた。 玄関左手にはキッチンがある。一人暮らしでもちゃんと自炊をしていたのだろう、食器が水切りカゴに綺麗にとは言えないがちゃんと収まっている。シンクの中にはグラスがひとつ。ふと気づく。あれ? 風呂は? いまどき珍しい風呂無しアパートか。 キッチンを背にして正面が居室のようだ。合板でできた引き戸がきっちりと部屋を仕切っている。
「(さて…)」
ゆっくりと引き戸を左に引いた。
「(ある意味これもOBか…)」
うつ伏せで斃(たお)れていたのであろう。私の足元すぐのところに右足の人型があり、体半分は万年床にたどり着き下半身は布団の外にあった様子がうかがえる。体調不良でトイレに行き、意識もうろうと布団に向かう途中で息絶えたのだろう。 道具入れから小さな小瓶を二つ取り出した。中には塩と酒が入っている。左手に小瓶を持ち、蓋を開けそれをポケットにしまった。
「お疲れ様でした」
小さく声にした。 小瓶の中の塩をひとつつまんでご遺体があった付近の畳の上にパラパラと落とした。次に酒が入った小瓶に人差し指を浅く入れ、滴る酒をそこに弾いた。 道具入れに小瓶をしまうとあらためて気づいた。部屋の中の方が臭いが気にならない。おそらく現場検証、遺体搬出と人の出入りで廊下や玄関付近に体液が広がったのであろう。それと畳の上で亡くなったというのもあるのか、畳には消臭効果があるような気がする。 顔を上げ周りの様子をうかがう。ハエは数匹程度飛び回り、ウジは見当たらない。押し入れはなく室内左手に引いたナイロン製の紐に衣類が掛かっている。その下に収納ケースが二つ、下着入れか。布団の向こう正面に八十センチ四方ほどの小さなちゃぶ台とカラーボックスを横にした本棚、その上にテレビが鎮座している。右手奥には五段ほどの衣装タンス。ちゃぶ台の周りにはカップラーメンなどの食料品がいくつか見うけられる。
荷物の量と汚れ具合が確認できたので今日はひとまず退散することにした。道具入れから無煙のバルサンを取り出し布団の脇に置いた。明日以降の作業の際、ハエの妨害を防ぐためだ。足でガス噴射スイッチ押しこみそそくさと部屋を出た。 ポケットから鍵を取り出し施錠をして、玄関脇に道具入れを置いた。中から除菌剤を取り出し、手と顔にこすり付けた。そして、つっかけながら履いた靴を脱ぎ靴下を交換した。ちなみにこの見積の時点では防毒マスクはしない。した方がいいに違いないのだが。
車にもどる途中、依頼主に見積金額について連絡を入れた。作業内容、作業工程を細かく説明した。 すると相手はこちらが提示した金額と作業内容に納得した様子で明日の朝早急に振り込むとのことだ。
会話を終えるころにはコインパーキングに到着していた。道具入れをトラックの荷台にしまうと狭い車内に体をネジ入れた。
「やっぱ臭うなぁ」
作業服の袖や肩の辺りを嗅ぐとあの独特な臭いが染み付いているのがわかる。車内に速攻で臭いが拡がった。古いウインドウハンドルを回すとキコキコと音を立てながら窓ガラスがゆっくりとドアの内部に収まっていった。 イグニッションキーを回しエンジンに火を入れる。ズドンという重低音と同時に車が揺れた。この目覚めの瞬間がたまらない。キャブ車独特の吸気音とマフラーから吐き出る排気音。軽く優越感に浸る瞬間でもある。 ゆっくりと始動しコインパーキングを出た。すっかり陽は落ち時々焼き鳥のいい匂いが車内に入り込んでくる。おかげであの独特な臭いが気にならなくなっていた。
「腹減った」
晩飯は焼き鳥だなとひとつ今後の予定を解決させ、明日の作業予定に思考を切り替えた。 (この物語は体験を元にしたフィクションです)